今年のお彼岸は、本堂の上がり口にも掲示板を置きました。
「わたしがねているときでも動いてくれる心ぞう」
詩人であり書家である相田みつをさんの言葉です。
私は私の心臓ひとつさえも思い通りには出来ません。夜中に、ふと心臓が止まってしまっても、自分ではどうすることも出来ません。
よくよく生かされているこの私だと言わざるを得ません。9月20日の本願寺新報には以下のように書かれておりました。
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食べ物や住まい、人間関係、社会制度、いまこの私には、与えられ、為され、恵まれたことがたくさんあります。むしろ、私を成り立たせているのは、すべて私以外から恵まれたものだというべきでしょうか。
そうすると当たり前と思っている日常の裏側には、見えにくくて意識しづらくとも、実は広大な「恩」が存在しているというべきでしょう。
ところで、日本人の多くは「恩返し」の考え方が強くそなわっているといえます。それ自体は否定されるべきものではありませんが、場合によっては恩返しをしたからもう恩義を感じる必要はないと、たまっていたツケを支払ったかのような考え方に陥りかねません。しかし本来的には、恩とは決して返しきれるようなものではないはずです。そして阿弥陀さまのお救いも、私が返しきれるようなご恩ではありません。
自分を支えてくれている家族のやさしさにふれ、この世で直接会えなくなったあのひとから受けたご恩を思い出します。仏さまの教えと出逢わせてくれたご恩でした。お彼岸の時期に恩ということをあらためて味わわせていただきます。 本願寺派総合研究所 副所長 高田未明