澍法雨(じゅほうう)

梅雨明けした途端に連日の酷暑となりました。

新型コロナの第11派という報道もありますし、熱中症とあわせて、くれぐれもお気を付けてお過ごしください。

子どもの頃、夏の夕立は、さっと通り過ぎて気温を下げてくれるものでしたが、最近は酷い雷雨となります。近年は、梅雨の降り方も以前のそれとは変化してきたように感じられます。

降雨を機縁としたお話が、7月20日発行の本願寺新報にございましたので、ご紹介いたします。

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 仏教はインドのお釈迦さまの説法から始まっています。その内容はお釈迦さま個人のお考えというよりも、どのような時代のどのような人の上にも当てはまる法則が説き示されているというべきでしょう。

 身近では、種がまかれて(因)、水や気温などの諸条件(縁)がととのった末に、花開く(果)という因縁果の道理が当てはまります。その道理にわが身を引き当てて考えれば、自分自身も一人で存在することはできません。

 人々との関係や社会、地球環境、なにより多くの命を食べ物としていただいて生かされていることを知るに至ります。こうしてお釈迦さまの教えの内容はあらゆるものに区別なくあてはまります。

 経典には、仏さまの教えが「法雨」として説かれています。雨は降り落ちる先を選り好みしません。また「澍ぐ(そそぐ)」には、雨が降って万物をうるおすという意味があります。私たちは、いまこの瞬間もひとしく、法としての仏さまのはたらきをいただいています。

 雨降りの日は、あらためて仏さまの教えを聞く機縁とさせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・本願寺派総合研究所 副所長 高田未明・・・・・・・・・・・・・・