今年も住職が世話をする蓮の花が咲くころになりました。

今月は、大谷本廟の月々のことば(2023.7月)をご紹介します。

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金子みすゞさんの作品に「蓮と鶏」という詩があります。

「泥の中から  蓮が咲く

 それをするのは  蓮じゃない

 卵の中から  鶏が出る

 それをするのは  鶏じゃない

 それに私が  気がついた

 それも私の  せいじゃない(出典 金子みすゞ「蓮と鶏」)」

 

あたりまえだと思っていることが、本当はあたりまえではなく、実はすごいことなんだと気づかせてくださる、素敵な詩です。

 

仏教では、私たちが「南無阿弥陀仏」のお念仏を称える姿を、泥の中から白い蓮の華が咲く様子に例えられます。泥のようにドロドロとした煩悩を抱える私たちに、手を合わせお念仏申すという仏道を歩む姿が生まれている。その姿をお釈迦さまはし白い蓮華の華「分陀利華」だと喜ばれたと説かれています。

 

しかし、それは金子みすゞさんが「それをするのは蓮じゃない」と言われたように、私たちが頑張って仏道を歩もうとした結果生まれたものではありません。そうせしめるような様々なご縁やはたらきがあって初めて私の手が合わさったのではないでしょうか。

 

そのはたらきに気づかせていただくのは、例えば先立って命終えて行かれた大切な方とのお別れかもしれません。もし大切な方との別れがなければ、煩悩に振り回される私は手を合わすことも、お念仏申す事も、仏教に出逢うこともなかったかもしれない。そして大切な方との別れに導かれ、阿弥陀如来の「すべての人を、命終えた時にわが国浄土に生まれさせ、仏にしたい。だからどうか私の名を呼んでほしい、南無阿弥陀仏と称えてほしい」という願いが私にはたらき、泥の中から蓮の華が咲くように、私の上に手を合わせ、お念仏を称える姿が育てられてきたのです。

 

仏さまの前や、お墓参りの時に当たり前のように手を合わせ念仏称える私ですが、それは決して当たり前のことではなく、多くのお育てがあって初めて生まれた尊い営みなんだと、泥の中から咲く蓮の華の姿に思わせていただきます。